披講のすばらしさ
表現者としての喜びを前回はi-roseでお話しました。
考えてみれば、披講もそうです。披講はまったく儲からないがそれを表現する喜びでここまで来れた。今年は11月21日に紀尾井町小ホールでの初公演も決定。語りと披講という音声の芸術まで高めたい希望がある。
能に匹敵する表現法として、語りと披講の組み合わせには可能性があると勝手に思っている。能はあちらの世とこちらの世をつなげ、そこでわだかまりを解消させる、確かに世界最高度の芸術である。
さらにシンプルなのが、語りと披講の組み合わせである。
語りというもっとも原初的な音の芸と、歌の組み合わせなので当然といえば当然。
語りが周辺事情を語り、そして深い思いが歌われて決める。こんなシンプルで素晴らしい形式はないと思う。
小節や歌だけでは影が差す。どんなに高度な芸術にも影が差す部分があると思う。
影とはリアルから離れた観念幻想を生み出す部分とでも言おうか。しかし語りと歌の組み合わせだとそれが少ない。
例として、断絶した母子を考える。娘は門限を破っていつも叱られる。母は娘のかえりが遅いのでいつも心配である。どちらが果たして正しいのか。時代はそうした状況をどうとらえるのか。いくら評論しても、小説にしても、歌にしても、答えは見だせない。しかし、これを語りと歌、歌の原初形である、私たちの場合は披講だが、これをやるとこうなる。
母子断絶の状況を語った後、
母は「ああ料理が冷めていく、、、娘は今日も帰らない。。。
私ひとりでは食べられない、、、、」と歌う。
そして娘は娘で歌う。
「友達は今日も悩んでいる、、、この友人を置いては帰れない、、、
一人にしては帰れない、、、母に電話をしなくては、、、でも叱らる、、」と歌う。
このとき、どちらが悪いでもない、どちらが正しいでもない、第三の了解が染み込んでいく。これが語りと歌の世界にできることなのだ。
当然、能と同様に死者の魂との交流も可能だ。
披講自体、それはお得意な分野であり、大体昔は丑三つ時に歌会をやったぐらいだから。丑三つ時に色々な霊にも歌を聞かせたのだ。
今でも倍音がよく出る披講をするとレギオンが聞きにくるのがわかる。
語り、歌の組み合わせが能に匹敵ないしは、それを上回る可能性を感じるのはそのためでもある。
なんだか一人で勝手に話してしまった印象で、みなさんには確実に引かれてしまうと思うけど、倍音マントラ、みなでやりたいです。
Posted by マドモアゼル・愛 | 固定リンク










